職場には誰からも好かれないのになぜか残り続ける人がいる。それが課長や部長クラスだと現場の空気は一段と重たくなるものです。
ぼくの職場にもそんな人がいます。
声が高く話が長い。
主語が常に自分で会話の焦点がずれている。
医師にも看護師にも嫌われ事務職員からも距離を取られている。
それでも今日も変わらず課長席に座っている。
人員マネジメントとして反面教師にさせてもらいながら、なぜ排除されないのか。少し引いた位置から見てみようと思います。
最初に「嫌われている」とは何か
嫌われているとは、単に「苦手」ではありません。信頼が崩れ、否定的な感情が職場全体で共有されている状態です。
誰も意見を求めず、誰も期待していない。
本人も他人の声を受け取らない。
会話は情報交換ではなく、空気の濁りになる。
ここまでくると、言葉で修復するのは難しくなります。
もはや人間関係の問題ではなく存在そのものがストレスという段階です。
そんな人が居座れるのは構造の問題
嫌われている人が居続けるのは個人の図太さではなく組織の構造の問題です。
病院のような階層組織では肩書きそのものが役割を代弁します。「課長」という肩書きがあるだけで形式上は責任者として扱われる。実際のマネジメント能力が問われにくいのです。
上層部も動かしたがらない。人を替えるには説明や調整が必要で手間がかかります。多くの上司にとっては定年まで静かに過ごしてくれればいいというのが本音です。
評価制度も曖昧です。
医事課のような職種では成果を数値で測るのが難しく、特に問題がないがそれで良いと解釈される。そうして、誰も問題を明文化しないまま放置されていきます。
60歳を過ぎれば今さら変える必要はないとなります。温情と惰性が手を取り合い、誰も手を出さなくなる。結果、無能ほど安定する構造が完成します。
皮肉ですが、組織とはそういう生き物なんですよね。
変われない人の心理
嫌われる人ほど、承認欲求が強いです。
認められない現実を受け入れられず、自分の正しさを声で守ろうとする。それが甲高い主張になり、さらに周囲を疲れさせていく。
役職は最後の防波堤です。「課長」であることが自分の存在証明。肩書きを失えば、自分が空っぽになる。だから絶対に手放せない。しがみつくことでしか、自分を保てないのです。
最初は不満を口にする人がいます。「なぜあの人が課長なのか」と。けれど、何を言っても変わらないことがわかると誰もが黙り始める。
その沈黙こそが、彼を守る壁になるのです。集団的なあきらめが完成すると、居座りは安定します。組織は、放置に慣れると、もう動かなくなる。
関わらないという選択
ぼくも、業務報告以外ではほとんど話しかけません。
冷たく見えるかもしれませんが、距離を保つのが一番平和です。関われば燃えるし否定すれば怒る。だったら静かに距離を取る。敵対ではなく中立でいること。
それが、現場を守る一つの方法です。
嫌われ課長が残り続けるのはその人が強いからではありません。排除できない組織が、弱いからです。
病院という組織は人情で回っています。それ自体は美徳でもありますがときに正しさよりも平穏を優先してしまう。その積み重ねが、静かに職場を疲弊させていくのです。
嫌われ課長から学べること
ぼくはただ観察しています。どんな言葉が信頼を削りどんな沈黙が組織を濁らせるのか。人は簡単には嫌われません。嫌われるにはそれなりの積み重ねがある。
それを見つめるのも、ひとつの学びです。
関わらず記録し学ぶ。
嫌われ課長を変えることはできません。けれどそこから何を学ぶかは自分で選べる。ぼくはその選択を、静かに続けているのです。